予研=感染研裁判とバイオ時代の安全性

ーバイオ施設規制の歴史と文献紹介ー




(5つの時代区分ーバイオ施設への国際的、国内的規制の発展)


芝田進午(当会代表幹事)


《「バイオ安全研ニュースレター、No.1、1999年8月」より》


お手元の「病原体・遺伝子組み換え実験施設(バイオ施設)への国際的、国内的規制についての年表」をご覧ください。

昨年12月に私が裁判で証言を行うに際して裁判所に提出した資料が20数ページありますが、これはその要旨をまとめたものです。徐々にバイオ施設に対する国際的規制が強まってきたことを示しているのですが、4ページ目から5ページに記しているように時期的に第1期から第5期の5つに区分しています。
遺伝子組み換えが大きな社会問題になったのは1975年のアメリカにおけるアシロマ会議からです。

●第1期(〜74年まで)は、一般的に公害環境問題が重視され、これらの規制が強化され始めた時期です。ただし、この時期はバイオ施設については無規制です。

●第2期(75〜83年)では、75年のアシロマ会議を受けて実験者や研究者による自主的規制が始められました。今の日本では基本的にまだ自主的規制の段階です。科学技術庁や文部省の「組み換えDNA実験指針」がありますが、これにしたがっておればよろしい、つまり内部で自己規制すれば安全だというものです。

アメリカでは、そういう自己規制では不十分だとしてバイオ施設への規制が始まる時期です。アメリカなどでは、まず大学の研究室に対する規制が始まりました。大学は企業と結びついてバイオなどの先端的な研究を行おうという非常に進んだところだったので、こういう大学の研究室に対する規制が始まったのです。ただし、この時期は、裁判で研究を差し止めるという時期ではありません。市の条例により安全委員会を設け、そこに住民代表や素人が参加して安全ということを確認するというものでした。排水や排気を規制するというところまではいきませんでした。

なお、予研に対する規制の運動は、1981年に武蔵村山市議会がP4施設建設・ P3施設実験に抗議し、P4実験施設の稼働が中止となりました。同じ年に筑波では理化学研究所のP4施設に対する反対運動が機動隊などにより抑えられ、1982年に着工が強行されました。その点で日本では、1981年は重要な区切りの年です。

●第3期(83〜90年)は、WHOがバイオ施設の安全対策の最低基準を制定し、住民が裁判で規制を求める時期です。

●第4期(90〜97年)は、国連、WHO、ECなどがバイオ施設への法的規制を強化する時期です。日本においては正確には、環境庁や自治体が法的規制を強化しようとして妨害された時期です。施設の立地・環境条件について規制を発表し、予研=感染研が決定的に孤立する時期です。決定的に孤立とは少しオーバーな表現かもしれませんが、少なくとも文献に照らせばそう言えると思います。

以上がバイオテクノロジーが始まって以来、バイオ施設の規制の運動および法的規制が行われてきた大まかな時期区分です。



《予研裁判ならびにバイオ時代の安全性についての文献》


次にお手元の「予研(感染研)裁判ならびにバイオ時代の安全性についての文献」をご覧ください。

実は、私が書いたものも含めて全部総ざらいしてみたのですが、私も忘れていたものも相当ありまして、これを作成してみて、随分書いてきたものだなあと思う半面、集大成には至っていないと感じました。

これを年代順に並べたのが6ページ以降です。6ページ以降を中心にお話します。

●第1期(〜74年まで)

ある施設が安全か安全でないかという議論は1960年代から行われていたのですが、その点で先駆的な考え方を示したのが1967年の武谷三男『安全性の考え方』(岩波新書)です。安全性をどう考えるかということでわが国で最初にまとまった理論を打ち出したものです。私は予研の運動の中でこの本に出会い、この本をいかに獲得し、発展させるかという点で努力してきました。

1973年の高杉晋吾『日本医療の原罪』(亜紀書房)、『日本の人体実験』(三笠書房)は、予研に対する批判の先駆的な書物です。題名からおわかりのように、731部隊の医学者の体質が予研に継承されているということを鋭く批判しています。実は、その前に1948年ごろに雑誌『真相』が取り上げたことがありますが、単行本としてはこれがはじめてのものではないかと思います。高杉さんの仕事は1984年に『黒いカプセル:死を招く薬の犯罪』(合同出版)があります。この本はまだ入手可能です。予研の薬害にかかわる犯罪がまとめられています。

●第2期(75〜83年)

1975年の吉原賢二『私憤から公憤へ』(岩波新書)は最近再版されました。吉原さんは、放射線化学の専門家で、息子さんがインフルエンザのワクチンで重度の障害者になり、なぜ障害者になったのかを追及し、ワクチンの被害者を組織して裁判を起こし、ついに勝訴した方です。私とは独立の立場で予研の反科学性を批判してこられました。1994年に吉原さんは「インフルエンザワクチン接種の政策が野垂れ死にするまで」(全国予防接種被害者の会機関紙『わかぎ』1号)を書かれています。『私憤から公憤へ』では予研の名前をあまり出しておられなかったと思いますが、この文章では予研の福見秀雄をはじめとする研究者を名指しで非常に厳しく批判しています。欠陥ワクチンであることを知りながら乳児に大変な被害を及ぼしたことを厳しく批判しています。

私の本になりますが、1977年に『人間の権利』(大月書店)を出しました。1976年がアメリカ独立宣言200周年ということで、それを機にアメリカ独立宣言の研究成果に基づきつくった本です。

実はこれが今の予研闘争の原点です。アメリカ独立宣言は欠陥もありますが、現代のために書かれた人権宣言といえます。なぜなら、基本的人権の筆頭に生命の権利を挙げているからです。生命の権利を侵害する政府に対しては人民の革命の権利と義務をうたっています。当時のイギリス国王の犯罪の言わば糾弾状でもあります。いまだこれにまさる人権宣言はありません。その後のいわゆる社会主義国の憲法や日本国憲法では革命の権利と義務までうたってはいません。その点で、私にとっては重要な思想的な源泉です。

そのことと関連しますが、1979年の武谷三男『特権と人権』(勁草書房)も重要な問題を提起しています。予研の管理者が新宿区戸山で研究するのは自分たちの権利だといっても、それは「特権」です。なぜなら、もともとここには障害者のリハビリ施設がありました。その障害者の交通の人権を奪って所沢に追いやった、その跡地を彼らが直ちに横取りしたからです。「人権」と「特権」を区別しなければならないということを提起した点で非常に評価されてよいものです。

私が予研との闘争で最初に1番しっかり読んだのは予研の幹部の著作です。80年の北村敬「病原微生物の一般的取り扱いにおけるバイオハザードとその対策」(岩田和男編『微生物におけるバイオハザードとその対策』ソフトサイエンス社)、81年の大谷明らの著作『バイオハザード対策ハンドブック』(近代出版)、これらの本を読んで驚いたのです。

大谷氏らの本では「P3実験室の排気は内部に取り入れてはならない、周辺でも再利用させてはならない」と書いてあります。82年の北村敬「バイオハザード防止施設の微生物学的条件」(『建築設備と配管工事』)では、「こういう施設は社会における感染の感染源になる傾向が一般化しつつある」と書いています。私が反対運動を始めた根拠は、あなた方自身の主張からするとおかしいではないですか、という簡単明瞭なものです。

77年の「新所長に望む」(『学友会報』)、82年の「予研のP4施設の問題と移転の問題」(『学友会報』)の西川文雄は、当時の予研の職員で、この人たち自身が新宿移転に異議申し立てを書いています。西川さんは「公害の見本」のようなものだと断言されています。予研の品川ではその通りだったことが判明しました。旧庁舎の汚染のひどさは信じ難いものです。

このように、私どもの反対運動の理論は予研の内部の主張に基づいてきたのです。
なお、90年の芝田編『論争・生物災害を防ぐ方法』(晩聲社)の49ページから53ページまでに予研の職員の意見が記載されています。本庄重男さんの意見もありますが、すでに予研の内部からも警告されていたのです。

●第3期(80〜90年)

WHO、Laboratory Biosafety Manual,1st edition,1983,Geneva は『病原体実験施設安全対策必携』と訳されます。内部の施設の安全対策の最低の基準が記されています。なお、予研が訳した内部資料がありますが、相当意図的な誤訳がなされています。この『必携』によれば、P3施設は政府に届けなければならない、排気は内部に取り入れてはならない、人のいる建物に流してはならないとされています。83年「空気の流れとエアロゾル」(『メディシチ』)、84年「安全キャビネットと現場試験」(『空気清浄』)日野茂男氏は、現在、鳥取大学医学部教授ですが、フィルターの性能についてよく研究していた人です。この人はフィルターは欠陥品は数10%あるということを指摘し、これからは発がんウイルスや未知の病原体を扱うから周囲に漏れていたとき、すぐにはわからないのでますます危険だと指摘されています。医学者の中から警告が出ていたことは重要です。

1984年の北村敬「バイオハザード対策総論」(『空気清浄』)は、バイオハザードの所内対策で少なくともこれだけのことは必要だという概論です。日本では1番これが総論的には優秀ですが、少なくとも外国文献3冊からの盗作を含んでいることが後に判明しました。ですから日本ではバイオハザードについて独自に研究していない証拠でもあります。私は裁判で同論文が盗作だということを指摘しました。なぜなら、彼らはこれを転写して裁判所に準備書面を提出していたからです。ただし、彼らは都合の悪いことは全部削っていました。私は、これは盗作したものをさらに改ざんして作ったものだと指摘しました。

87年の高橋晄正『危険なインフルエンザ予防接種』(農村漁村文化協会)は非常に重要な本です。インフルエンザのワクチンの危険性を体系的に証明したものです。予研は要するに御用学問の研究施設だと明確に批判しています。私は大学の学生たちにこれを科学方法論のテキストとして勧めていたものです。私にとっても科学方法論の厳密さを学ぶうえで参考になりました。そして今でも、インフルエンザワクチンの安全性、一般にワクチンや薬の安全性に関してこの科学方法論を無視しては議論できない、そういう古典的な文献です。

私がこういう問題を研究し始めたのは87年からでして、全くの素人だったのですが、イタリアの有名なマルクス主義者でアントニオ・グラムシから学んだことを適用しました。彼は学問的な論争では敵の1番強い学説を批判せよ、弱い欠陥のある学説を批判しても勝てないからだ、政治闘争や軍事闘争では敵の1番弱いところを突くべきだと述べました。理論闘争や思想闘争では敵の1番 強いところを突くべきで、強いところというのが北村や大谷たちの著作です。

それが私にとって自信を与えてくれました。1987年から14篇の公開質問状を出しまして、その最初の部分が88年の『生命を守る方法』(晩聲社)、90年の『論争・生物災害を防ぐ方法』(晩聲社)にまとめてあります。この場合、論争する相手は専門家です。私がとった方法は公開質問状という「私は知らないから教えてくれ」というものです。安全か安全でないかという抽象的なことではなく、質問状という方法、どういう危険な物質や微生物がどれくらいありますか、ということを具体的に質問したのです。それでわかったことは、実は彼らはそういうデータそのものを持っていないということでした。

感染研の主任研究官の新井秀雄先生に、先生の研究室に有害化学物質、病原体はどのくらいありますかと聞くと、調べたことがないという返事でした。そこで、新井先生に調べてもらいますと、一升瓶に50本くらいの有害化学物質がある、病原体はガラスのカプセルで約4千本あったそうです。新井先生の研究室ですらそうですから、病理学の研究室はもっとすごいでしょう。

そういう具体的なことを質問したので彼らは回答不能になりました。2つの本に記載しているこういう質問状は、原発やゴミ焼却場についての質問状を作成する場合にも参考になると思います。説明会では後に残りません。安全性の科学のための具体的な方法として、すべて文書で質問し、文書で回答求める、これが重要な教訓でした。

89年、武谷先生『フェールセーフ神話の崩壊』(技術と人間)を出して、当時すでに予研批判をやっておられます。

●第4期(90〜97年)

90年、EU諸国『遺伝子組み換え微生物の封じ込め施設での利用についての指令』を出しました。これは画期的なものです。こういう施設からは病原体は必ず漏れるから、危険度を評価すべきだ、公衆の合意を得るべきだという警告をしています。

少しさかのぼりますが、80年のR・ハットン『遺伝子をあやつる』は、封じ込め施設は必ず漏らすということを先駆的に警告しています。いわゆる「物理的に封じ込め」や「生物学的封じ込め」は仮説にすぎないことがすでに批判されていたのです。

93年にWHOが83年の『安全対策必携』の第2版を出しました。これで一段と規制が厳しくなりました。実は、私は予研内部を見学できないし、最新の施設でもあるので、予研施設は国際基準に合致しているだろうと思っていたのですが、新井先生がチェックしてくださったのですが、同書の「安全チェック・リスト」をもとに採点すると100点満点でせいぜい20点というところです。ちなみにこの本の編集者は、後に査察に招いたコリンズさんです。

89年に予研裁判が始まりましたが、93年に出した『バイオ裁判』(晩聲社)が89〜93年の原告側裁判文書をすべてまとめたものです。彼らが出した文書にはすべて反論しています。彼らが私たちの主張に反論できないことがお分かりになると思います。その後のものは本になっていませんが、出版しなければならないと思っています。

外国文献で重要なものは93年のR・ヘニッグ『ウイルスの反乱』です。ヘニッグはアメリカの科学ジャーナリストですが、私たちが主張してきたことと同じことを主張しています。必ず漏れるということ、培養という条件の下では病原体の質が変わる、変異してしまうということも警告しています。

ついでながら、その次に Morse の Emerging Viruses です。80年代から新しい病原体が出てきているその概論書です。最近、佐藤雅彦氏による邦訳『突発出現ウイルス』が海鳴社から出ました。

95年の本庄重男先生の「旧ソ連で起きたバイオハザード」(『技術と人間』)は世界で判明した最悪のバイオハザードについての報告です。1979年、スベルドロフスクで風下4km にわたり16人が死亡、家畜は風下50km にわたり被害を受けました。研究所から漏れた炭疽菌は10mg、ちょうど1円玉の1000分の2くらいです。これも炭疽菌ですから、すぐに死んだから分かったのです。もし、これがインフルエンザやエイズウイルスだったら分からなかったでしょう。

同じ95年、96年に第三世界ネットワーク(Third World Network)の文献が挙げられています。第三世界ネットワークというのはマレーシアのペナンに本部がありますが、これらの文献は先進国の科学者をも組織したシンポジウムの成果で、遺伝子組み換えの危険を体系的に警告した最初の重要な文献です。

●第5期(97年〜)

97年のWHO、Safety in Health-care Laboratories, Geneva は、『保健関係実験施設の安全性』と訳されますが、先ほどのコリンズが編集したものです。この中で、「高度の封じ込め実験施設ないし危険な実験施設は、病院、公衆の集まる地域等から離れて立地されるべきである」とし、住宅地では許されないという見解を示しました。

コリンズさんは最初、査察があり、厳重に管理すれば住宅地でもどこでもよいという見解でしたが、しだいにフィルターの性能についての私の研究を伝えることを通じて、見解を変えられ、WHOの見解にもなりました。その意味で、予研裁判の原告の見解が、コリンズさんを通じて国際社会の見解なっていったと言えるのではないかと思います。

予研の査察については97−99年に「連載・感染研の国際査察」(『技術と人間』)に掲載しています。これも完結しましたが、いずれは本にしたいと思っています。

98年の Mae-Wan Ho の『遺伝子組み換えは夢か悪夢か』という本が重要です。これは遺伝子組み換えに対する最も包括的な危険性の警告の本で、私が読んだ生物学の本の中では大変刺激的なものです。本庄先生が中心になって邦訳が計画中であるとのことです。私たちの主張の正しさがこの本で裏付けられたと思います。(最近この本の訳書が小沢元彦氏の翻訳で『遺伝子を操作する』という題名で三交社から出版されましたー編集者)

最後に、研究の方法についてですが、あることを研究するのに1番手っ取り早い方法は文献リストの年表をつくることです。そうすると対立した意見がわかります。対立した意見の双方を批判的に見ることにより、新しい見解を形成することができるのです。



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