英国の牛での口蹄疫の突発と防疫体制

〜いくつかの教訓〜

                   本庄 重男、長島 功

 

はじめに

 最近、英国で牛の口蹄疫(foot and mouth disease、略称:FMD)という伝染病が突然発生した。このことは、日本のマスコミでは余り大きくは取り上げられず、多くの人々はほとんど関心を示さなかったようである。

 しかし、バイオハザード予防の見地からは、無視できないいくつかの問題をふくむ事件 であると考えられるので、私たちは英国発の報道に注意を払ってきた。そこで、今日までに得られた情報を整理・要約して会員各位にお知らせしたい。この事件で最も重大なことは、感染した牛が飼われていた農場の近く(約5キロメートル)に、国立動物衛生研究所と私立ワクチン製造施設が在り、そこで取り扱っていたFMDウイルスが何らかのルートで周辺の牛に感染したものと、ほぼ確実に判断できたということである。以下に少し詳しくその様子を記すが、その前にまずFMDについて簡単に解説する。

 

口蹄疫(FMD)とはどんな病気か

 FMDとは、ピコルナウイルス科(Picornaviridae)のアフトウイルス属(Aphtovirus) に分類されているFMDウイルスにより起こされる動物の感染病である。昔から世界のほぼ全地域に潜在し突発・流行をしていた伝染病である。日本では、過去何十年来その発生はほとんど伝えられていない。

 FMDウイルスが感染する家畜や野生動物の種類は大変多い。うち主な種類は、偶蹄類(牛・水牛・綿羊・山羊・駱駝・麒麟・鹿・猪・豚など)である。齧歯類(リス・ムササビ・ラット・ハタネズミなど)も感受性を有する。ひとたび家畜で出現すると、感受性のある多くの野生動物種の存在とも関連して、その根絶はなかなか難しい。幸い、人に対する病原性はほとんど認められない。

 牛や豚が感染した場合、致死的ではないが、口腔・鼻腔の粘膜や四肢の蹄周囲の表皮に水疱が多発し、食欲減退・元気消失・泌乳量減退・肉質悪化が起きる。崩壊した水疱や膿疱からは大量のFMDウイルスが溢れ出る。そして、それらのウイルスは、空気・塵埃・汚物・汚水などを介して、また罹病個体との接触により、次々と異個体に迅速に拡がって行く。そのために、同一群や周辺群の家畜全部を殺処分せねばならぬ事態も出現し、畜産業上大きな被害問題が生ずる。2001年の英国での流行では、650万頭もの家畜が処分され、関連事業(たとえば、観光事業)での被害も加えると損害総額は約85億ポンド(約2兆円)にも及んだと伝えられている。

 

英国での最近のFMD発生事例

 去る8月3日に、ロンドンの南西、サーレイ州(Surrey)ギルフォード(Guildford)近郊の農場で2頭のFMD罹病牛と1頭の高度に罹病を疑われる牛が確認された。その拡がりを防ぐ目的で、ただちにいろいろな対策が採られた。それらは、保護地域と監視地域の設定、地域外への家畜(牛・羊・豚など)の移動禁止、地域への出入制限、出入時の消毒処置、そして域内の約200頭の家畜の殺処分を含んでいる。また、国外への動物や肉類の輸出も禁止された。64頭のFMD罹病牛が確認されたとの報道もある。なお、病牛の症状(とくに水疱の所見)から推して、ウイルスに感染した時期は、7月14日から25日の間であろうと判断された。

 ともあれ、これらの処置の故か、その後の流行拡大は抑えられている模様で、8月25日以降監視区域外からEU諸国への家畜や肉類の輸出は、獣医学的検査済みのものに限り証明付で許されることになった。

 

推定される感染源と感染経路

 今回FMDが最初に発生した農場から約4.5キロメートル北東のパーブライト(Pir-bright)には、国立の動物衛生研究所の施設と私立のメリアル研究所動物ワクチン製造施 設が存在する。近隣の農場で牛がFMDウイルスに感染したと推定された時期(7月14〜25日)に、これら2施設はともにFMDウイルスを取り扱っていた。すなわち、前者では診断用抗原精製のため1実験当り10ミリリットル以下の少量を、後者ではワクチン原料として1万リットルもの大量を、それぞれ扱っていたのである。

 ギルフォードの病牛から分離されたFMDウイルス株のタイプは、 O1BFS67であった。それは1967年に英国で流行したウイルス株である。重大な点は、動物衛生研究所の実験でもメリアルのワクチン製造でも、同じ株を使っていたことである。なお、この株は、FMD関係の研究所とワクチン製造所以外には世界中のどこにも配布されていない。これら2施設は今回のFMD発生地に最も近接している同一ウイルス株保有機関であり、2番目に近い保有機関はベルギーに所在する。とにかく、今回の感染牛から分離されたウイルス株は、近隣の2施設で扱われていたウイルス株と遺伝子レベルでも一致するということが証明されている。それゆえ、今回のFMDウイルス感染突発の源は両施設のいずれかであり、そこから漏れ出たウイルスが何らかの経路で近隣農場の牛に辿りついたことは、ほとんど間違いないとみられるに至った。なお、ワクチンの製造業務は8月6日に一時停止された。したがって、潜伏期間(約12日)を勘案すると8月20日頃以降には、メリアルのワクチン製造施設からのウイルス漏出による新たな病牛の発生は無くなるものと考えられる。もちろん、環境中に同ウイルスが残存していれば2次的に周辺の感受性家畜に拡がることもあり得るが、集中的な調査が行なわれてその可能性はほとんど無いとみられている。

 さて、今回のFMD発生は一体どのような感染ルートで起きたのであろうか。 英国保健省の環境・食品・農村事情局(Defra)は、2研究所からのFMDウイルス漏出の可能性がある経路として、次の3経路を挙げ、それぞれについて疫学的検討をしている。すなわち、@初発例が感染した頃、2研究所の空気濾過装置が不調で、かつ風向が病牛のいた農場の方向に向いていたため、実験施設の空気フィルターを通過したウイルス粒子を含むエーロゾルが農場方向に拡散した可能性(空気・塵埃感染)、A実験施設からの廃水(恐らく局部的な溢れ水)による農場の土壌や水系の汚染の可能性(水系感染)、B実験室のウイルス封じ込め区域からのウイルス培養物またはウイルスにより汚染した物品の意図的または非意図的(事故的)な持ち出しやそれらとの接触、さらにはそれらの意図的散布の可能性(人為的接触感染)である。

 第1の可能性(空気・塵埃感染)については、2施設の高性能空気フィルターや排気ダクトの現状および保守管理基準順守状態の厳格な査察および風向きの気象記録の調査の結果、その可能性を肯定できる証拠は得られなかった。

 第2の可能性(水系感染)については、2施設の廃水処理系統(動物衛生研究所では隔離動物室からの廃水に対する加熱処理系とその他の廃水に対する化学処理系との2系統;メリアルワクチン製造所では化学処理系)が7月14〜25日の間不調であったことを示唆するような証拠は無かった。但し、化学処理系については両施設でともに、今後検討を要する問題がいろいろ生じていることも認められた。結論的には、水系感染の可能性は完全には否定できず、今後さらに調査・検討が必要ということである。

 第3の可能性(人為的接触感染)については、施設の管理体制や作業記録類を調べ、職員多数に聞き取り調査を行なった結果、人の移動が病原ウイルスを運んでしまった事実上の可能性を考えねばならないと判断され、この点の精査が緊急に必要とされた。

 

今回のFMD発生事故から私たちが学んだこと

 英国での今回のFMD発生事故は、未だ調査・検討が進められている部分もあり、今後さらに詳しくその真相が明らかにされるものと思われる。それにしても、現時点で既にかなり多くのことが判明している。そこで、それらを顧みる限りで私たちが学び得る教訓を考えてみたい。

 “はじめに”でも述べたことであるが、バイオハザード予防の見地から、この事故は病原体を取り扱っている施設が感染源になっているという点できわめて重大である。旧予研裁判の会(現感染研の安全性を考える会)や私たちバイオハザード予防市民センターは、今日の問題として、病原体を取り扱っている施設にこそバイオハザード発生の大きな危険性があるということを兼ねてから主張してきた。今回の英国でのFMD発生事故は、私たちの主張の正しさを裏付ける事実である。私たちはこの視点を堅持して、今後も感染研の動向を監視し続け、適した立地条件の地への移転を要求し続けるべきである。これが第1の教訓である。

 次に、今回のFMD突発に対して英国政府の関連部局が執った方策の迅速さや適切さには感嘆すべきものがあり、それらは残念ながら日本政府機関では見られない類のものである。たとえば、8月3日に発生が確認されると、関連ある政府機関が直ぐにチームを組んで、5日・6日・7日と発生現地や発生源と推定された施設に立ち入り、詳細な調査を行なったのである。その調査チームには、保健安全行政部(HSE)、環境・食品・農村事情局(Defra)、獣医局(VMD)および環境庁(EA)が参加している。そして、 その調査結果の報告が迅速に発表されたのである。インターネットを介すれば、世界中の誰でもその報告を手に入れることが出来るわけである。しかし、日本の縦割り非能率行政と非民主的秘密主義行政では、人々になかなか真相を伝えないであろう。英国的情報公開の態度は、バイオハザード防止のために絶対必要であり、私たち市民は日本政府に強く要求して行くべきであろう。

 第3は、英国で病原体を取り扱ったり遺伝子操作をしている施設では、取り扱いルールがはっきり決められており、それを支える国家レベルの法令も整備されていることである(たとえば“特異的動物病原体規則:Specified Animal Pathogens Order)。そして、 それらに従って査察や調査が円滑に進められることである。たとえば、実験室からの排気用の高性能空気フィルター(HEPA)についての保守・点検基準などわが国に有るであろうか。この機会に今一度、わが国の病原体関連施設の不完全さや厚労省・農水省・環境省など行政部門の体制不備を見直すべきではないか。

 

おわりに

 今回の英国における牛のFMD突発事故について、私どもが現時点で知り得た情報に基づきバイオハザード予防の視点から解説し、若干の私どもの見解も付け加えた。今後新しい情報が入り、修正を要する点が生じた場合には、遅滞無く修正意見を発表するつもりである。

 この小論を脱稿した直後、詳細な最終報告(下記の資料D)が発表された(200710月)が、それは実質的にはこの小論を修正する必要のない内容である。

 

                  参考資料

 

@FMD 2007. Summary Epidemiology Report, Situation as at 10:00 Thur.09 August,

              Department for Environment,Food and Rural Affairs.

AInitial report on potential breaches of biosecurity at the Pirbright site

 2007 : Health and Safety Executive, FMD Epidemiology Report,09 August 2007.

B“The Merck Veterinary Manual6th Ed.1986,

                  pp.375-378.Foot-and-Mouth Disease.

C“Veterinary Medicine An Illustrated History−”

          by R.H.Dunlop & D.J.Williams, Mosby,1996.

DFinal report on potential breaches of biosecurity at the Pirbright site 2007:

     Health and Safety Executive, 07 September 2007.

 



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