科学者として                                 

新井秀雄(代表幹事)

 

実験室での感染リスクはまず実験者自身が負って当然である

 

1975年アシロマ会議()の後、遺伝子操作実験を行うためのバイオハザード防止の施設・設備や器具の開発は実験に従事する側の緊急な利便性から考案されてきた。施設の面からみれば、その中心は「物理的封じ込め施設」(以下、封じ込め施設と略称。「生物学的封じ込め」についてはここでは触れない)であり、ヘパフィルター装着による病原体捕捉と強制排気システムにある。

 「封じ込め施設」以前のバイオ実験の基本的操作は無菌操作といわれ、それは実験野の気流を機械的に操作して実験者の感染を防止する機能は備えてないので、実験操作中に不可避的に発生したエアロゾルの直近で操作している実験者がもっとも取り扱い病原体に感染する危険性が高かった。実験終了後に、実験室の窓を開けることでエアロゾルは自然拡散して戸外へ徐々に流出し外界において主として太陽光線中の紫外線によって殺菌されることが期待されていた。従って、この無菌操作法の時代においては感染リスクの最も高かった実験者の感染をいかに防止するかが重要とされ、実験室内感染が防止されれば外界での感染は事実上問題なしと考えられていた。無菌操作時代の国立予防衛生研究所(現感染症研究所)においての実験室感染が稀ではなかったこと、その中には法定伝染病(当時)に関わるものもあったが、研究所外への影響は無視しても問題なしとされたためか所轄の保健所への届出は皆無であった。このことに、実験室感染が防止されればよしとしたこの時代のバイオハザード対応の実態が現れている。

 ヘパフィルターと封じ込め施設にみるところの、感染が広域に波及する可能性がある現在のバイオハザードの実質は、(実験者の)「安全を図る安全キャビネット」内で実験操作中に発生した病原体を含むエアロゾルを常時機械的に気流を操作することで実験者から離すことにより実験室内感染を防止する。実験者方向から安全キャビネット方向へ常時機械的に気流が流れる装置によって、実験者への暴露を忌避して集約されたエアロゾルをヘパフィルターを通過させることで病原体を捕捉(100%捕捉は不可能)した後に外界へ放出する。

この方式の導入に依って、それまで発生エアロゾルに最も濃厚に暴露されていた実験者の感染が有効に防止されるようになった。施設におけるバイオハザード防止の方策のもう一つは、P3施設(P4も)における実験室の陰圧状態保持の構造である。常時室内を陰圧に保つことで、実験室内で取り扱われる病原体が施設外に漏出することを防止する。そのために実験室が機密になるような構造にしたうえで、室内の空気を機械力によって常時排出しヘパフィルターを介して外界に放出する。安全キャビネットと実験室内の両方から機械力によって強制的に排気するシステムである。このシステムではヘパフィルターが100%病原体を捕捉できないで機械力で放出された病原体は(無菌操作時代のように)自然拡散によって徐々に外界へ放散していくのではなく、強力な排気の気流に乗って撒き散らされることになる。この強制排気システム稼働による悲惨なバイオハザード発生例が旧ソ連時代のスヴェルドロフスク市のバイオ施設において1979年に起きた炭疽菌強制排気バイオハザード事件である。

この事件は、強制排気システムの導入・稼働がなされていなければ起こり得なかったものであり、このことはその後のバイオハザード対策に大きな教訓を与えているが、残念なことに今日にいたるまでその教訓は生かされていないようである。一方でWHOは、P3施設の実験室からの排気(陰圧保持のために機密構造を保持して機械力で排気する)に関しては、実質的に無菌状態が期待できるとの判断と思われるが、この排気系途中のヘパフィルター装着は必ずしも必要としていない。ヘパフィルターの効果が過大に評価されていることは問題であるが、P3施設の室内空気が実質的に問題とならないのであれば、陰圧構造を保持する必要性もない。浸透性のない壁構造で機密が保たれているのであるから安全キャビネットから取り出した病原体材料で汚染された場合は(室内の強制排気システムが無ければ)除染操作で対処できることになる。実際には、安全キャビネットから病原体材料を取り出す際には堅牢な密閉容器に収納してから取り出すことになっているので誤って落としても直ぐに汚染が広がることにはならない。

P2施設では、ヘパフィルター装着の安全キャビネットからの排気は、そのままP2施設内へ開放されているし、室内は陰圧構造になっていない。そこで取り扱われる病原体は、万が一実験者が感染しても対処することができるし、またその病原体の種類はこれまでの経験から実験室感染の容易さがP3施設の病原体に比べて低いものである。このようにみてくると、強制排気システムの是非をもう一度考えてみる必要があるのではないか。第一に、実験者の感染リスクを強制排気システムの採用によって外部で生活する周辺住民へ転嫁する構造を周辺住民がなぜ許容しなければならないのか。実験室での感染リスクは実験者自身が負って当然であるから、実験者のレベルでの安全対策を図るべきである。そのために、ヘパフィルター装着の防護服の開発が必要であり、こうした防護服を着用した状態での消毒剤によるシャワーに耐える構造を有して、施設への入退出時に消毒する。第二に、WHOが示すようにP3施設の室内の感染リスクは実質的に低いことをかんがえれば、防護服で万一の感染を防止することで現行の強制排気システムを中止することが可能である。残る問題は、P3の安全キャビネットからの排気の処理である。安全キャビネットからの排気の少なめの風量から推定して、この場合にはヘパフィルター部分に加熱等の殺菌できる構造を導入するのが実際的な一つの方法となる。かくして殺菌された空気は施設内へ放流する、あるいは常時焼却炉が運転されている施設においては焼却炉への燃焼空気へ導入する方策も考えられる。

結論的に、本来的にはP3施設を生活圏から離して建設するべきであるが、現在すでに多くのP3施設が首都圏を初め全国の生活圏内で稼働している。そこで、現在稼働中のP3施設においては、まず強制排気システムを停止する、然る後に実験者自身の感染を防止する方策(たとえば上記の防護服)を導入することが急務である。

 

※アシロマ会議…遺伝子組換えに関するガイドラインが議論された会議。アメリカ合衆国カリフォルニア州アシロマにおいて開催されたことからこう呼ばれる。28か国から150人ほどの専門家が参加した。


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