WHOのバイオセーフティに関する2つの文書について

(長島功)

はじめに

 WHOは公式ホームページ上で世界的なバイオセーフティの強化を図る取り組み―「WHOバイオセーフティプログラム」―の詳細な内容を明らかにしている。このプログラムは、昨年(2005)5月に開催された世界保健会議(実質上はWHOの総会に相当する)で採択されたバイオセーフティの強化を推進することを定めた決議―タイトルは「実験施設のバイオセーフティの強化」―に基づいて策定されたと思われる。この2つの文書からバイオセーフティとその確保に向けての活動の必要性に関するWHOの理解をうかがい知ることができるが、それは期せずして当センターの見解と重なるものがある。そこでこの両文書をそのまま翻訳して紹介し、最後にこれらの文書の意義、概要、主要な論点について解説を加えることとする。

 

(1)WHOバイオセーフティプログラム

(WHOの公式ホームページより)

 

理論的根拠

健康で安全な環境を維持することは、世界の人々の健康の確保を押し進めるWHOの努力の不可欠の部分である。しかし、世界の人々の健康の確保は、自然発生する風土病、新興感染症ならびに再興感染症の脅威により危機に曝されている。世界の人々の健康の確保はまた、病原因子の偶発的または意図的な放出によっても危機に曝される可能性がある。

 

目標

WHOバイオセーフティプログラムの全体的な目標は、事故または病原微生物の不適切な取扱いや使用法により発生する病気の広がりを可能な程度まで抑えることである。

 

目的

 

世界保健機関は、関心を有するパートナー国との協力の仕組みを通じて、次の目的のために共同して努力する。

 

     最良の実践慣行と国際的なルールや規則に基づく病原微生物の取扱いに際しての安全な実践慣行を次の施設または分野で推進する。

     保健関係施設

     製造施設

     研究所

     野外調査

     輸送

     感染性物質の安全な取扱いを目指した国家的、地域的、世界的な活動計画の確立のための努力を強化、調整、評価すること。

     実験施設の建設と建設後の評価の際の安全基準の策定を推進すること。

 

WHOバイオセーフティプログラムは、国際連合(国連危険物輸送専門家委員会―UNCETDG)、UNDIDUNEPWHOFAOバイオセーフティ作業グループ、万国郵便連合(UPU)、国際民間航空機関(IATA)、アメリカ・バイオセーフティ協会(ABSA)、ヨーロッパ・バイオセーフティ協会(EBSA)、ヨーロッパ・バイオセーフティ連盟、有害廃棄物の国境を越える移動とその処理に関するバーゼル会議ならびに生物多様性に関するUNEP会議とともに協力する。WHOバイオセーフティプログラムは、世界の人々の健康確保への関心を共有する国単位または国際的なグループとの協働を歓迎する。

 

プログラム活動の分野

 

     次の事項に関する規範、基準ならびに国連モデル規則の策定

     感染性物質の輸送と取扱い

     実験室の封じ込め能力の認証

     病原体の安全性確保

     病原因子の保管と分配

     バイオセーフティに関する出版物の発行

     WHO「実験施設バイオセーフティマニュアル、第3版」

     感染性物質の輸送のためのWHOガイドライン

     静脈切開に関するガイドライン

     バイオセーフティに関する情報の提供

     バイオセーフティに関する訓練資料の作成作業を調整する

     実験室訓練課程で使用するためのバイオセーフティに関する教育単元の作成作業を調整する

     世界のパートナー国を通じた加盟国への技術的援助の提供

     実験施設の設計

     封じ込めのための対策と実践慣行

     WHO協力センターを通じたバイオセーフティ確保の面での援助

     感染性物質の安全な移動のための国家及び地域レベルでの援助

     唱導活動

     WHOプログラムで積極的にバイオセーフティ活動を推進する

     国際的及び各国のバイオセーフティ組織にWHOの代表を派遣する

     バイオセーフティが唱導される諸問題のための資料を準備する

     世界的な協同

     WHOバイオセーフティ諮問グループの活動を調整する

     国際的組織と専門家の組織に高度の専門技術的な助言を与える

     WHO協力センターの活動を調整する

     特別の世界的な病気制圧プログラム(例えば、ポリオ撲滅)を支援する

     将来の方向性

     情報ギャップがどこにあるかを特定し、さらに多くの研究課題を捜し出す

     バイオセーフティの基準と実践慣行の世界的な実施

     バイオセーフティに対する対策と実践慣行の調和

(出典:http://www.who.int/csr/labepidemiology/projects/biosafety/en/index.html

     

 

(2)実験施設のバイオセーフティの強化

 

58回世界保健総会            WHA58.29

 

議題項目 13.9                                                  2005525

 

 

58回世界保健総会は、

 

微生物因子及び毒素の放出が世界的な悪影響をもたらすかもしれないことを考慮し、

 

実験施設内の微生物因子及び毒素の封じ込めが重症急性呼吸器症候群(SARSのような新興・再興感染症の流行の防止に決定的に重要であることを認め、

 

実験施設のバイオセーフティの推進におけるWHOの努力を認識し、

 

多くの加盟国が微生物因子及び毒素の実験室研究者と地域社会へのリスクを抑えるために効果的な実験施設のバイオセーフティ管理対策と実験室実践慣行のためのガイドラインを整備していることを認め、

 

十分なバイオセーフティ管理対策を整備していない加盟国があることを認識し、

 

微生物因子及び毒素の封じ込めをはじめとする、実験施設のバイオセーフティ確保への統合的な取り組みが世界の公衆衛生を促進することに留意し、

 

1.加盟国に以下のことを強く要請する。

 

(1)   貴国の実験施設の安全性と微生物因子及び毒素の安全な取扱いを定めた貴国の既存のプロトコル(規則及びガイドライン等−訳者注)をWHOのバイオセーフティに関する手引きに一致させるよう見直すこと

 

(2)   封じ込めをはじめとする、微生物因子及び毒素の安全な取扱いと輸送のためのバイオセーフティ実験室実践慣行を推進するために、WHOのバイオセーフティに関する手引きに一致した特別なプログラムを実施すること

 

(3)   政府所轄の実験施設、大学と研究センターの実験施設、民間部門の実験施設、とりわけ毒性の強い微生物因子を扱う実験施設をはじめとする実験施設による実験室の実践慣行のためのバイオセーフティ・ガイドラインの遵守を強化する国の準備計画及び国のプログラムを策定すること

 

(4)   実験室感染の発生とその結果感染が地域社会に広がる可能性を最小限に抑えることを目的に、微生物因子及び毒素の封じ込めをはじめとする実験施設のバイオセーフティを向上させるために各国ならびに国際的な人的・財政的資源を動員すること

 

(5)   個人の保護備品と封じ込め装置をはじめとする、実験室感染の防止と抑制を目的とした実験施設のバイオセーフティ確保のための設備の入手を容易にするために他の加盟国と協力すること

 

(6)   安全意識を高め安全な実験室実践慣行を改善するために、実験室研究者のための生物学的安全訓練プログラムと能力基準の策定を奨励すること

 

2.WHO総長に以下のことを求める。

 

(1)   WHOがその命令に従って実験施設のバイオセーフティと微生物及び毒素の封じ込めを向上させる仕事に向けて積極的な役割を果たすことを保証すること

 

(2)   向上した実験施設のバイオセーフティと微生物因子及ぶ毒素の封じ込めを推進する努力を強化する他の適切なプログラムとパートナーの取り組みを支援すること

 

(3)   全加盟国の関心に応えるために全加盟国との協議のもとで適切なWHOガイドラインとマニュアルを定期的に更新することを含めて、微生物因子及び毒素の封じ込めをはじめとする実験施設のバイオセーフティを強化するための知識と経験を加盟国の間で発展させ分かち持つことを支援すること

 

(4)   加盟国の求めに応じて、微生物及び毒素の封じ込めをはじめとする実験施設のバイオセーフティを強化するための技術的支援を行うこと

 

(5)   この決議の実施に関して理事会に定期的に報告すること

 

9回全体会議、2005525

A58/VR/9

(出典:http://www.who.int/csr/labepidemiology/WHA58_29-en.pdf

 

 

(3)WHOのバイオセーフティ強化の取り組みについて

 

 先に掲げたWHOの2つの文書について若干の解説を付す。われわれは、これらの文書から、WHOがバイオハザードを狭く実験室感染に限定して理解することなく、また米国のようにバイオハザードと言えばバイオテロを真っ先に念頭に置くこともなく、新興・再興感染症の広がりをも一種のバイオハザードと解釈したこと、さらにこれが最も重要であるが、実験室感染の結果として起きる可能性のある実験施設の周辺住民への感染拡大をバイオハザードの中心部分と把握したこと等、バイオハザード概念を広く捉えていることを伺い知ることができる。このようなWHOの見方は、われわれ「バイオハザード予防市民センター」が、バイオハザードを主として実験室感染と実験施設の周辺地域への感染拡大に据えながらも、感染症の蔓延・流行とバイオテロをそれに含めて、バイオハザード概念を包括的に扱ってきたことが間違っていないことを裏付けるものである。

 

次に2つの文書の概要を明らかにする。

 

・「WHOバイオセーフティプログラム」(以下、文書@)

 この文書の何よりも評価すべき点は、「目標」の項で明らかにされているように、「事故または病原微生物の不適切な取扱いや使用法により発生する病気の広がり」がバイオハザードの中心的な部分と理解されていることである。すなわち、実験室感染から周辺住民に感染が拡大することがバイオハザードであり、これを可能な限り防止することがバイオセーフティであると主張されているのである。こうした主張は、当センターのバイオハザード理解と重なるものがある。ただWHOの重要な任務の一つは、このようなバイオハザードの発生を防止するために全世界的な規模で取り組むことである。

・「第58回世界保健総会決議―実験施設のバイオセーフティの強化」(以下、文書A)

この文書はSARSが実験室感染をきっかけに広まったことを受けて、実験施設内の病原体と毒素の偶発的放出が世界的に悪影響を与えているという認識を前提に、実験施設のバイオセーフティの確保に向けた全世界的に統合された取り組みにより世界の人々の健康を守る緊急の必要性を訴えるものである。このことは、加盟国への要請事項の(4)に「実験室感染の発生とその結果感染が地域社会に広がる可能性を最小限に抑えること」がバイオセーフティの目的として掲げられていることからも明らかである。 

 

さらにこの2つの文書からの注目すべき論点を以下に列挙する。

 

@     国際的ルールの遵守―病原微生物の安全な取扱い方法は、単に国内の規則に従うだけで

はなく国際的なルールに基づかなければならないとされている。具体的には文書@の「目的」の冒頭に次のように記されている。「最良の実践慣行と国際的なルールや規則に基づく病原微生物の取扱いに際しての安全な実践慣行を推進する。」また「プログラム活動の分野」の最後の項目の2番目に「将来の方向性」として「バイオセーフティの基準と実践慣行の世界的な実施」が掲げられている。他方、文書Aでは、加盟国への要請の第1項に、「貴国の実験施設の安全性と微生物因子及び毒素の安全な取扱いを定めた貴国の既存のプロトコル(規則及びガイドライン等−訳者注)をWHOのバイオセーフティに関する手引きに一致させるよう見直すこと」が挙げられている。これに従えば、全世界のバイオ施設は、安全な実験慣行に関して各国の規則または指針を守るだけでなく、WHOの指針をも遵守すること、さらに国内の基準がWHOの基準に一致していなければ改訂することをWHOは要求しているのである。今後は、加盟国である日本はこのWHOの勧告を無視することはできない。

 

A実験施設の建設・操業時の安全基準の策定―文書@の「目的」の第3項に「実験施設の

建設と建設後の評価の際の安全基準の策定を推進すること」が挙げられている。すなわち、第1に、実験施設の建設時の安全基準を策定することが各国に求められている。この安全基準が設計に関するものだけでなく、立地条件を含むことは、WHOの「保健関係施設の安全性」(1997年)で立地規定が提示され、勧告されていることからも明らかである。第2に、実験施設の建設後の評価の際の安全基準を策定することが各国に求められている。具体的には、実験施設の定期的な耐震診断、防火対策、設備点検、職員の訓練の実施状況、病原体等の有害物質の日常的な漏出点検、感染性廃棄物の処理状況の点検等、施設の操業開始に伴うあらゆる安全対策を評価する基準が制定されなければならない。また文書Aにおいても全国にあるバイオ施設を規制するガイドラインの策定を各国に求めている。すなわち、加盟国への要請事項の(3)には、「バイオセーフティ・ガイドラインの遵守を強化する国の準備計画及び国のプログラムを策定すること」が各国に要請されている。わが国にはこのような国の基準と言えるものがないので、早急に整備されなくてはならない。それまでは、WHOのガイドラインを遵守することが求められることは、前述の@で言及したWHOの取り組みの目的からも明らかである。

 

B国際協力―第3に、バイオセーフティを全世界的に達成するために、WHOはバイオハ

ザード対策の遅れた国への援助を他の加盟国の協力を通じて行う。すなわち、文書@の「プログラムの活動」の第4項には、「世界のパートナー国を通じた加盟国への技術的援助の提供」が挙げられている。またこの意味でバイオセーフティの強化に向けては「世界的な協同」(「プログラムの活動」の第6項)が必要なのである。具体的には、封じ込め装置の導入の遅れた国(例えばアジア・アフリカの発展途上国)や法的整備の遅れた国(例えば、先進国では日本やロシア)には欧米諸国を通じた援助が必要である。また文書Aでも、「実験施設のバイオセーフティを強化するための知識と経験を加盟国の間で発展させ分かち持つことを支援すること」(「WHO総長への要請事項の(3))や「バイオセーフティを強化するための技術的支援を行うこと」(「WHO総長への要請事項の(4))がWHO総長に要請されている。こうした意味で、日本は米国からだけでなく、英国を中心とするヨーロッパ諸国から学んで、バイオハザード予防のために法制度を整備すべきである。

 

 以上、見てきたように、現代は新興感染症の発生やバイオテロだけでなく、実験施設を発生源としたバイオハザードの発生の危険に脅かされている。とりわけ注目すべきは、最近では新興感染症の治療のために必要な突発出現病原体の研究施設(P4施設)とバイオテロ対策として建設されている生物兵器対処研究施設(P3・P4施設)が新たなバイオハザードの発生源として登場していることである。したがって、このような時代においてこそ、バイオ施設を規制し、周辺住民が安全に暮らせる法制度を整備すべきであるとともに、住民による監視体制を強化していく運動もまた必要であるといえる。

 

 

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