吉倉廣前感染研所長のWHO指針歪曲を批判する〜吉倉廣「微生物学講義録」批判

長島 功(バイオ市民センター幹事)

 

はじめに

 国立感染症研究所の所長を務めた吉倉廣氏が、「日本ウィルス学会」のホームページに掲載されている「微生物学講義録」で、保健関係実験施設の立地条件に関するWHOの規定を歪曲して訳し、次のように述べて、こともあろうに感染研と裁判で争った周辺地域住民を半ば輩扱いしている。

 「かって、patient, residential and public areasを『患者のいる地域、住宅地、公衆の集まる地域』と云う具合に訳し、『ある研究所の立地条件がWHO基準に合わない』と騒いだグループがいた。

(吉倉廣「微生物学講義録」第27章:http://jsv.umin.jp/microbiology/index.htm

 「かって」と言えば、吉倉氏は、以前、予研=感染研裁判で、上述のWHO規定に関する自説を展開した書証を裁判所に提出した(乙61号証「コリンズ・ケネディ報告書甲342号証に対するコメント」、以下、「吉倉論文」と略す)。これに対し、故芝田進午前予研=感染研裁判原告代表が反論し(「国立感染研の危険性1」『技術と人間』20004月号、以下、「芝田論文」と略す)、既に論争の決着はついている。にもかかわらず、吉倉氏は決着済みの議論をむしかえし、あたかも原告側の主張が客観性を欠いた根拠のない「誤訳以上のもの」であると決め付けている。吉倉氏の「微生物学講義録」はインターネット上で公開されているので、その影響は無視できず、ここに改めて氏の解釈を批判することとする。

 

吉倉氏の主張の要点

WHOの規定に関する吉倉氏の解釈及び主張は、@laboratoryはもっぱら「実験(検査)室」を意味し、したがって、Aresidential areas は「住宅地」ではなく、実験室のある建物内の「居住部分」を指す、という2点に尽きる。これによって、吉倉氏は、WHOは感染研のような保健関係実験施設の立地条件に関しては何も規定していないと主張したいのであろう。しかし、以下に述べるように、WHOはこのような施設の立地について明確な勧告をしている。

 

吉倉氏によるLaboratory の語義の矮小化

 吉倉氏は、laboratoryをもっぱら「実験室」(「微生物学講義録、第27章」)または「実験検査室」(「吉倉論文」)と解釈している。しかし、laboratory が1つの実験室を意味するだけでなく、いくつかの実験室の集合体である「実験施設」またはその呼称である「研究所」を指すことは、大学受験英語レベルでの常識である。例えば、もっともポピュラーな学習英和辞典である「ジーニアス英和辞典」では、laboratory は、「実験室、研究室[]」と説明され、「a hygienic laboratory 衛生試験所」という例解が示されている。すなわち、laboratory は、単にlaboratory roomではなく、laboratory building、つまり独立した建物でもあることは、大学受験生でも知っておかなければならない事柄なのである。

 それでは、英英辞典ではどのように説明されているだろうか。最も権威のある「オックスフォード英英辞典」(Oxford Advanced Learner’s Dictionary)では、laboratory は、room or building used for (esp scientific) research, experiments, testing,etc. と説明されている。

見てのとおり、この語義説明の最も重要な点は、room or building というように、laboratoryが「建物」でもあることが明確に示されていることである。この説明をあえて日本語に訳せば、「研究(特に科学的な)、実験、検査等のために使用される部屋または建物」となる。したがって、laboratoryの具体的な日本語訳としては、「研究室」、「実験室」、「検査室」あるいは「研究所」、「実験施設」、「試験所」等が考えられる。

 このように辞書類の定義からも、吉倉氏の解釈に反して、laboratory は、「実験室」だけでなくその集合体である「実験施設」または「研究所」を表す言葉であることは明らかである。

 それでは、WHO指針ではどのような説明がなされているであろうか。保健関係実験施設の立地条件を規定しているWHOの文献は、1997年に発行された”Safety in Health-care Laboratories” (以下、「WHO指針」という)である。予め指摘しておくが、吉倉氏は「微生物学講義録」で、WHO指針では、「そもそも、『実験室は病院の建物の中にあり』で始まって」いると解し、これを根拠にlaboratory を「実験室」に限定する自説を正当化しようとしている。しかし、laboratory 関するWHOの見解は、吉倉氏のそれとは正反対である。WHO指針がlaboratory とは何かを示した箇所は、”Laboratory types and classification” (「実験施設の型と分類」)と言う表題の付された一節である。 laboratory の分類を示したその中の重要部分では、次のように述べられている。

 

The laboratory は、全国的、地方的、地域的なレベルでサービスを提供するものであろうし、あるいは関連する教育的ないし研究的機能を有するものでもあろう。あるいは、それは、限定された機能を持つ小さな一部屋のlaboratory でもあるだろう。」

 

見られるように、WHOが重要視しているlaboratory は、「全国的、地方的、地域的なレベルでサービスを提供する」laboratory、具体的には「衛生研究所」等の独立した公立及び民間の研究所、ならびに「関連する教育的ないし研究的機能を有する」laboratory、具体的には大学付属の「研究所」であって、吉倉氏がlaboratoryと解する「限定された機能を持つ小さな一部屋の」laboratoryは、そのようなものもあるかもしれないというようについでに追加されているに過ぎない。

 「実験施設」としてのlaboratory を重視するこのようなWHOの姿勢は、上記の一節に続く”The laboratory building”(「実験施設の建物」)と題された節にも表れている。そもそも、”The laboratory building”と言う表題を掲げたこと自体、WHOが独立した建物としてのlaboratoryを主に念頭に置いていることを示している。にもかかわらず、吉倉氏は、この表題を「実験室の建設」と誤訳している(「微生物学講義録」第27章)。このように訳すのは、buildingを動名詞と解釈しているからであるが、そのように解釈する場合には、先頭に定冠詞のtheが置かれ、目的語であるlaboratorybuildingの前に来ることは文法上ありえない。このように訳されるのは、”The building of laboratories” または定冠詞を省いた”Laboratory building” と表現されている場合だけである。すなわち、”The laboratory building” と言う表現は、laboratory building という二つの名詞を重ねた複合名詞に定冠詞が前に置かれたものと解釈するのが文法的に正しく、したがって「実験施設の建物」と訳すべきである。英語では意味を明確にするために、laboratory room (実験室)laboratory facility(実験施設)というような複合名詞が実際に用いられている。吉倉氏は、”The laboratory building”を「実験室の建設」と誤訳することによって、このような英文法の初歩的な知識も無いことをさらけ出している。あるいは、”The laboratory building”を「実験施設の建物」と訳せば、「laboratory=実験室」説にこだわる吉倉氏が建物として存在するlaboratoryを認めることとなるので意図的に誤訳したことも考えられる。

 さて、このWHO指針の”The laboratory building”と題した節においてもlaboratoryの具体的な形態が提示されている。まず、吉倉氏によるこの節の冒頭部分の訳文を示しておこう。

 

保健・医療関係の実験室は病院の建物の中にあり、入院、外来患者と建物を共有して良い。又、病院等で独立した家屋でもよいし、大学、医学部、公衆衛生研究所のような研究や教育活動を行う建物の中にあってもよい。」(「微生物学講義録」第27章)

 

この翻訳自体も不正確であるが、問題は、吉倉氏がこの記述を基に、先述のように、WHO指針は「そもそも、『実験室は病院の建物の中にあり』で始まって」いると主張して、「laboratory=実験室」という自説の根拠としていることである。確かに、この箇所では、冒頭に病院の建物内にある実験室を挙げている。しかし、これは、WHO指針がこのタイプのlaboratoryが最も重要であるとみなしているからではない。というのは、この部分の記述は、laboratoryを規模の小さい順に提示して、laboratoryの分類を行っているだけだからである。すなわち、第1のタイプは、病院内の実験室、第2のタイプは病院等の敷地内の独立した建物である。第3のタイプは、吉倉氏によると「大学、医学部、公衆衛生研究所のような研究や教育活動を行う建物」であるとされているが、これは不正確な訳である。ここで「建物」と訳された原語はa separate building complexである。complexの意味は「複合体」であるので、a separate building complexは幾つかの独立した建物からなる複合体、すなわち簡単に言えば、「建物群」であり、したがって、第2のタイプの単一の「建物」より規模が大きい。それゆえ、この一節において、吉倉氏の言うように、記述が「そもそも、『実験室は病院の建物の中にあり』で始まって」いるからといっても、それは単にlaboratoryが規模の小さい順に挙げられていることを示すだけであって、WHO指針が「病院内の実験室」を重要視していることを意味しないし、まして吉倉氏のようにそれをlaboratoryの唯一の形態とみなしているわけではない。

 

周辺環境の保護はlaboratoryの義務

 WHO指針は「第3節 実験施設の建物と敷地」の冒頭の「一般的な設計目的」と題した節の最後で、laboratoryの義務について次のように述べている。「The laboratoryは、その職員、利用者、訪問者の健康と安全を保障すべきであり、隣接するいろいろな建物と公共の場所(adjacent buildings and public places)をふくめて、地域的ならびに全般的環境を保護すべきである。」このようにWHO指針が、laboratoryの義務として、内部の関係者の保護だけでなく、周辺環境の保護を挙げていることは、laboratoryの安全対策の必要性に加えてlaboratoryの立地条件をも規定するWHO指針の基本姿勢を表している。

 

WHO指針によるlaboratoryの立地条件規定

 WHO指針は、”Location of the laboratory”と題した節でlaboratoryの位置を規定している。その部分を日本語に訳せば、次の通りである(各項目に付した番号は便宜上筆者がつけたものである)。

 

ラボラトリーの位置

ラボラトリーとそれに付随する区域の、それら相互及び全体としての建物に関する(with respect to each other and to the building as a whole)相対的な位置が考慮されなければならない。
―@共通の機能を持つかまたは修理用の設備や実験用の設備が同じであるラボラトリーは施設の重複を避け、建物の中での試料の運搬を減らすために建物の一つの区域にまとめて設置しなければならない。

―A大きな荷物の定期的な配達を必要とするラボラトリーは荷物を受け取る区域または荷物専用のエレベーターの近くに位置していなければならない。

―B患者が訪れて標本を提供するか届けなければならない場合があるとしても、ラボラトリーはできる限り患者、住民、公衆のいる地域から離れて立地(be sited away from patient, residential and public areas)しなければならない。

―Cラボラトリーは建物の内部でそれが他の区域への通り道や通路になるような位置に設置してはならない。

―D高度封じ込め用のラボラトリーかまたは危険度の高いラボラトリーは患者や公衆のいる地域と往来の激しい道路とから離れて立地(be located away from patient or public areas and from heavy-used circulation routs)しなければならない。

―E修理用の設備は保守点検作業が実験作業に最小限の邪魔にしかならないように行われるような位置に設置されていなければならない。

―F可燃物の使用とむすびついて火災の危険の大きな実験施設、たとえば組織病理学の実験施設は、火災の影響と類焼を最低にするために患者や公衆が近くにいる地域ならびに可燃物保管施設から離れて立地(be located away from patient or public access arrears and flammable material storage facilities)されなければならない。」 

 

最初に、考慮すべきlaboratoryの位置とは何なのかを述べた冒頭の一文を検討しなければならない。この文は原文では次の通りである。

 

The relative location of the laboratory and its ancillary areas with respect to each other and to the building as a whole must be considered.”

 

吉倉氏は、この冒頭部分を「実験室とその補助(ancillary)部分の相互、並びに、実験室と建物全体との相互の場所関係に考慮すべきである」と訳し、これをもって、「『実験室と建物全体との相互場所関係に考慮すべきである』としている」と解釈する(「微生物講義録、第27章」)。しかし、このような解釈は誤りである。それは次の理由による。この箇所においては、laboratoryの位置は、大きく分けて、()laboratoryと付随する区域の相互に関する位置と()全体としての建物に関するlaboratory位置(分かりやすく言えば「建物全体としてのlaboratoryの位置」)、の2つの観点から考慮しなければならないとされている。ところが、吉倉氏は、()全体としての建物に関するlaboratoryの位置を「実験室と建物全体との相互場所関係」と解釈している。しかし、このような解釈が可能となるためには、原文はwith respect to the building as a wholeではなく、in relation to the building as a wholeとなっていなければならない。というのは、with respect toは、「〜について」という意味の前置詞aboutonのより格式ばった表現であり、吉倉氏が解釈したような「〜との関係」という意味は無いからである。

 さらに、仮に吉倉氏の解釈のように、「実験室と建物全体との相互場所関係」が考慮されるべきlaboratoryの位置として挙げられているとみなしても、それに該当する項目、例えば、「建物の中央部、地階、上層部等」というような建物全体との位置関係を示すような項目は見当たらない。具体的に見てみよう。まず、次に示す項目は、()laboratoryと付随する区域の相互に関する位置に該当すると考えられる。

 

@     共通する機能を持つラボラトリーの集合的設置

A     荷物受け取り区域に近接したラボラトリーの設置

C     他の区域への通路となるラボラトリーの設置の回避

E 修理用の設備の設置

 

また、残りのB、D、Fは、吉倉氏の解釈のようにこれらの項目に見られるareasを建物内の「部分」と解釈すると、これらも()laboratoryと付随する区域の相互に関する位置に該当することとなり、吉倉氏の主張する「実験室と建物全体との相互場所関係」に該当する項目は一つも見当たらなくなる。したがって、laboratoryの位置として列挙された項目@〜Fの内容から見ても、吉倉氏の主張する「実験室と建物全体との相互場所関係」が「考慮すべきlaboratoryの位置」であると考えることは無理である。したがって、残りのB、D、Fは、()全体としての建物に関するlaboratoryの位置に該当することになる。

 次に、この点をB、D、Fで用いられている原語の表現から見てみよう。まず、Bには、”Wherever possible laboratories should be sited away from patient, residential and public areas”という表現が見られる。これを吉倉氏は、「実験室は、可能な限り、患者の居るところや居住区、公共部分から離れているべきである」と訳している(「微生物学講義録」第27)。

この翻訳の問題点は2つある。第1に、residential areasを「居住区」と訳していることである。建物内で実験室と離れているべき「居住区」とは何だろうか。考えられるのは、例えば「宿直室」くらいであろうが、職員が寝泊りすることを「居住する」とは言わない。または実験室が置かれている建物(例えば、病院)内に職員宿舎やマンションの部屋が設置されていれば、それは「居住区」と言えなくもないが、そのような実例は無い。したがって、「実験室は、居住区から離れているべきである」という訳文自体が保健関係施設の現実から表象できない非現実的な表現なのである。それではどのように訳すべきであるか。それは、residentialareaの用例からそれらの語義を明らかにすれば簡単である。例えば、この2つの単語の用例として、英語を外国語として学ぶ人のための英英辞書として最高の権威がある"Oxford Advanced Learner's DictionaryOALD)" residential の第一の項目に"a residential area, suburb, district, etc, ie one having no offices, factories, etc"という例文が載っている。この英文で area は、suburb(郊外)、district (地区)と並置されていることからも、また、offices (会社)、factories (工場)がない"a residential area, suburb, district"と言い換えられていることからも「地域」の意味であることは明らかであり、したがって、a residential area が「住宅地」を意味することも明らかである。

2に、吉倉氏は、be sited awayを単に「離れている」とあいまいに訳している。しかし、前掲のOALDによれば site site a buiding etc.(建物を立地させる) のように用いて、建物全体の地理的な位置を示すために用いられるのであり,建物内にある部屋の位置を示すためには用いない。そのような配置を示すためには place または locate(これは、地理的な位置を表すためにも使用される)を用いる。したがって、項目Bの該当箇所は、「ラボラトリー(実験施設)はできる限り患者、住民、公衆のいる地域から離れて立地しなければならない」と訳すべきである。残りのD、Fの項目に関しても、sited located に置き換わっているだけで、areasも「地域」の意味で用いられており、したがって、それらは、各実験施設が「患者や公衆のいる地域」、例えば、病院や公共施設のある地域から離れて立地すべきであることを主張しているとみなすべきである。

 

おわりに

以上から明らかなように、吉倉氏は、英語の文法や語法に関する無知のために非意図的に誤訳しているか、あるいは、原文の意味するところを承知の上で意図的に誤訳しているかのどちらかである。後者であるとすれば、「翻訳は、場合により、高度に政治的なものである」 「微生物学講義録」第27)とはその通りであり、吉倉氏の場合には悪しき意味で該当するのである。


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